ミッキー・ジョンストンと桐山照史
Twitterで散々書き散らした上にブログまで書く始末〜〜金曜の夜って感じっすね。
終わっていくことにやっぱり寂しくてどうしようもなくて、酒飲みながら今までの雑誌とかパンフとか自分が書き残してきたもの読み返してた。
以下、いつもより気持ち悪い文章が予想されます。ご注意を。
エディだけが幸せで、何もかも持っていて 、ミッキーは何も持ってなかったとはやっぱり思えない。物として形あるものは持っていなかったかもしれない、でもミッキーはまっすぐなまっすぐな愛を受けて育ってきた。エディは愛されなかったって意味じゃもちろんなくて。ただ、ライオンズ夫人の愛はちょっとゆがんでいたと思う。エディをもちろん愛しているけれど、何かその愛は「あの女(ジョンストン夫人)に負けない」という気持ちが見えて。自分が本当の母親なんだと自分に言い聞かせて生きているライオンズ夫人が1番自分を信じていないし、またエディを信じていない。エディに向ける愛を通して、自己承認・自己肯定しているような。そういう歪みに絶対エディは気付いていたと思うし、歪みの原因にも薄っすら気付いてたんじゃないかなってのは深読みかな。でもなんか絶対あるだろって感じてたと思う。
本当に本当に言えるだろうか、「なんで俺を渡さなかった?」と。それはリンダのことだけではなく。
私は自分が「照史くんのことで知っている確かなことなんて顔と名前ぐらいだ」とか偉そうなこと言ったおたくだということは、言った私が100も1000も承知な上で、あえて言う。ミッキーのリンダに対する独占欲や、愛されていることを知りつつも何かいつも不安に思っていることや、ノーテンキに見えて感じやすい心とか、でもいつだって100%の愛を周りに注いで生きている、そういうひとつひとつがだんだん、照史くん自身に見えてきてしまう。あー言っちゃった。
【8/29横アリリリイベ】 照史くん挨拶 ・メンバーにもっと必要とされる人材になりたい。頼られたい。 ・横浜アリーナでイベントができましたけど、25歳はもっともっと大きなところに連れて行きます。もっと綺麗な景色を一緒に見てください。
— ブラッド56ユニバース (@papenpucho) 2014, 8月 29
ここで思い出したのがこの挨拶。「もっと必要とされたい」。この言葉が衝撃だった。「愛されたい」って聞こえたから。
きっとミッキーは、何も与えられない自分の無力感が、きっと何よりも堪えたんじゃないかなって。リンダの「愛してんのよ」って言葉も聞こえなくなるぐらい。何も与えられない自分は要らない存在なんだ、必要とされてないんだ、、、愛される資格なんてないんだって。
そんな時に抱き合うリンダとエディを見てしまった。
私がミッキーなら、リンダを殺して自分も死ぬのにな。そうすれば永遠にエディは、リンダを手に入れることができないから。でももうリンダの心も自分に向いてないのだと思ったんだろうな。
銃を持ったミッキーの手をそっと握るエディの顔は穏やかで、何か全てを許されたような気持ちになる。薬よりも、もしかしたらリンダよりも、ミッキーを救えたのはエディだったのかもしれないと思うぐらい、あの一瞬2人の間に流れる空気は何か特別で、神聖で、7歳の時の誓いを思い起こさせる。奇しくも構図も同じ。エディが下手でミッキーが上手。
どうにかして2人には死なないでいて欲しかった。18歳で止まっていた2人の時間が、また動きだそうとしていたのに。物語の根本を覆す話だけれどでも、それでもやっぱりって思ってしまう。
自分で書いててだんだんなんの話か分からなくなってきてるし、そもそも号泣しながらブログ書いてるとか私今全世界でぶっちぎり一番に気持ち悪いオタクの自信ある